カルト映画とは何か。深夜に残った映像の共同体
カルト映画という言葉は、便利すぎる。
少し変な映画。公開当時は失敗したのに、あとから妙に愛された映画。暴力や性や宗教を挑発的に扱う映画。意味はわからないのに、なぜか忘れられない映画。いまでは、そのあたりをまとめて「カルト」と呼べてしまう。
でも、カルト映画は作品の中身だけで決まるものではない。映画そのものより、映画の周りにできた観客の習慣、上映の時間、噂、禁止、反復、共同体によって形を取る。
Dartmouth College の映画ジャンルガイドは、カルト映画を、熱心な観客集団による反復鑑賞、祝祭的な熱狂、台詞の記憶、身振り、衣装などの参加によって、あとから定義される雑多な映画群として整理している。1
ジャンル名というより、映画がどう生き残るかを指す言葉に近い。
誰が、どこで、何度も観たのか。なぜ普通の時間ではなく、深夜に観る必要があったのか。検閲や封印や悪評が、なぜ映画を殺さず、かえって長く生かしたのか。そこまで含めて、ようやくカルト映画の輪郭が見えてくる。
「変な映画」ではなく、変な観られ方
カルト映画を「変な映画」と言い切ると、少しずれる。
たしかに、カルト映画には変な映画が多い。話が進まない。人物の動機がわからない。宗教的なイメージが突然出てくる。暴力や性的なイメージが、物語の説明を置き去りにして画面に残る。音楽だけが妙に強い。結末が解決ではなく、放置に近い。
ただ、それだけなら、実験映画やアート映画、B級映画、失敗作の一部と区別がつかない。
カルト映画がカルト映画になるのは、観客がそこへ戻ってくるからだ。わからなかったものを、もう一度浴びる。誰かに説明したくなる。説明できないまま、連れて行きたくなる。深夜の映画館、大学の上映会、名画座、輸入ビデオ、海賊版、DVD、配信。媒体は変わっても、そこには「この映画の入口を、自分たちだけが少し知っている」という感覚がある。
その感覚は危うい。秘密の共有は、すぐ選民意識へ変わる。難解さを理解したふりをするゲームにもなる。
それでも、普通のヒット作とは違う温度がある。観客が消費者ではなく、発見者として振る舞う。映画が商品ではなく、拾われた異物のように扱われる。
ホドロフスキーと、深夜上映の神話
カルト映画の神話を語るなら、アレハンドロ・ホドロフスキーの『エル・トポ』(1970年)は避けて通れない。
ABKCO の紹介文は、『エル・トポ』を1970年代カウンターカルチャーのミッドナイト・ムービー現象を始めた作品として位置づけ、ニューヨークの Elgin Theater での初期上映がその流れを生んだと説明している。その動きは、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの支持によって加速した、とも記されている。2
ここでは、映画の内容と上映の形式がほとんど一体化していた。
『エル・トポ』は、西部劇の形をしている。銃を持つ男が砂漠を進む。血が流れる。宗教的な記号が積み重なる。禅、聖書、神秘主義、見世物、搾取映画の粗さ、ヨーロッパ前衛の匂い。物語は進むが、観客は筋を追うより、儀式に巻き込まれる。
これを昼間の普通のプログラムで観ると、ただ過剰な映画に見えるかもしれない。深夜に観ると、意味が変わる。街が静かになり、通常の時間割から外れた場所で、観客は自分たちだけの儀式としてそれを観る。映画館は、作品を上映する箱ではなく、共同体を作る装置になる。
ホドロフスキーの映画は、そこにぴったりはまった。
『エル・トポ』のサウンドトラックは Abbey Road Studios で録音され、1971年に Apple Records からリリースされた。ABKCO は、その紹介文の中で、ジョン・レノンがこの映画を Allen Klein に知らせたと記している。3 AFI Catalog も、レノンの熱意が Beatles のビジネスマネージャーだった Klein を動かし、『エル・トポ』の国際配給と、ホドロフスキーの次作『ホーリー・マウンテン』の資金提供・製作につながったと説明している。4
これは単なる有名人の推薦ではない。
1960年代末から70年代初頭にかけて、ロック、東洋思想、ドラッグ文化、反戦、共同体への夢、宗教的イメージ、資本主義への嫌悪が、かなり荒い形で混ざっていた。ジョン・レノンが『エル・トポ』に反応したのは、その映画が「ロックの時代の映画」として鳴っていたからではないか。
ギターではなく、映画で作られたサイケデリック・アルバム。
『エル・トポ』や『ホーリー・マウンテン』には、そんな手触りがある。曲のように論理を飛び越え、ジャケットのように画面が記号化され、ライブのように観客の身体へ直接来る。観終わったあとに残るのは、物語の理解より、色、姿勢、痛み、笑い、嫌悪、聖性の混ざったざらつきだ。
パラジャーノフと、検閲が作るカルト性
セルゲイ・パラジャーノフの『ざくろの色』(1968年 / 1969年として紹介されることも多い)は、ホドロフスキーとは別の回路でカルト映画になった。
『エル・トポ』が深夜上映とカウンターカルチャーの熱で増殖した映画だとすれば、『ざくろの色』は、検閲、再編集、地下上映、修復によって生き延びた映画である。
BFI はこの作品について、『忘れられた祖先の影』(1964年)の国際的成功後、パラジャーノフが18世紀アルメニアの詩人サヤト=ノヴァの生涯を映画化するために Armenfilm Studios から依頼を受けたと説明している。ただし彼は通常の伝記映画を避け、詩の視覚化を選んだ。民族儀礼とシュルレアリスム的な出来事を混ぜたその映画は、ソ連当局から難解と見なされ、再編集されたうえで限定的に公開された。5
Criterion も、この作品が当時のソ連映画を支配していたリアリズムから離れたため、当局によって配給を阻まれ、再構成された形でまれに地下上映されたと説明している。6
『ざくろの色』は、話を「語る」映画ではない。
布、果実、書物、水、羊毛、血のような赤、石、衣装、手の動き。人物は心理で動くというより、図像の中に置かれる。画面は奥へ進まず、平面のままこちらを見返す。映画なのに、時間が流れているというより、聖画やタペストリーが呼吸しているように見える。
この映画のカルト性は、過激な見世物性ではない。むしろ、説明を拒む静けさにある。
観客は、筋を追うことを早い段階で諦める。すると、画面の表面が急に近くなる。ざくろの赤、衣装の重さ、濡れた布、死者を送る儀礼、性別をまたぐ身体の配置。意味はわからないのに、何かが決定的に起きている感じだけがある。
ホドロフスキーが「過剰な意味」で観客を酔わせるなら、パラジャーノフは「意味になる前の像」で観客を止める。
どちらも、普通の映画の速度から外れている。
寺山修司と、『田園に死す』の記憶
日本でこの系譜に接続するなら、寺山修司を外せない。
『書を捨てよ町へ出よう』(1971年)は、タイトルそのものが観客をスクリーンの外へ押し出す映画だった。映画.com は、この作品を「演劇実験室『天井桟敷』」が全国各地で百数十回以上上演した同名ドキュメンタリー・ミュージカルの映画化であり、寺山が製作・原作・脚本・監督の四役を担当した作品として紹介している。7
映画ナタリーの作品情報では、確固とした物語は存在せず、主人公の青年を中心に、現実、過去、幻想がさまざまなイメージとして描かれるシネ・エッセイとして説明されている。8
カルト映画として寺山を考えるなら、むしろ『田園に死す』(1974年)のほうが重要だと思う。
映画.com は『田園に死す』を、寺山が監督・脚本を手がけ、自身の同名歌集を映画化した自伝的作品として紹介している。舞台は青森県・恐山のふもとの村。父を亡くした少年時代の「私」は、イタコに父の霊を呼び出してもらい、隣家の女性やサーカス団に家出の誘惑を見出す。やがて上京し中年になった「私」が映画を撮り、その前に少年時代の自分が現れる。音楽は J・A・シーザー、配給は ATG である。9
ここでは、映画が記憶を再現するのではない。記憶そのものが、映画の中で壊され、作り直される。
母、恐山、イタコ、サーカス、少年の欲望、死者の気配。『田園に死す』では、郷里が懐かしい場所として戻ってこない。むしろ、帰れない場所として画面に立ち上がる。赤や緑の強い色、舞台美術のような村、土俗的な儀礼、突然入り込む見世物の気配が、私小説的な記憶をどんどん疑わしいものにしていく。
ここで寺山の映画は、ホドロフスキーやパラジャーノフとは別の意味で「カルト」になる。
ホドロフスキーは深夜の観客を儀式へ巻き込む。パラジャーノフは検閲を抜けてきた図像として、観客を静止させる。寺山は、自分の記憶と郷里を見世物として組み直し、観客に「これは本当に過去なのか」と疑わせる。
天井桟敷の存在は大きい。寺山の映画は、演劇、詩、歌、街頭、見世物の感覚を持っている。それでも、カルト映画としての寺山を一本で考えるなら、『書を捨てよ町へ出よう』よりも『田園に死す』のほうが強い。観客を町へ出すというより、記憶の底へ連れていき、そこで「故郷」や「母」や「私」という言葉を信用できなくする。
寺山の映画で、歌や音は場面を飾るものではない。場面を分断し、観客の距離を変え、映画を演劇や街頭や見世物へつなぎ直す。カルト映画が「観客の観方」によって成立するなら、『田園に死す』は、記憶を見るという行為そのものを不穏にする映画だった。
三人に共通するもの
ホドロフスキー、パラジャーノフ、寺山修司は、同じ種類の映画作家ではない。
ホドロフスキーは、宗教、タロット、身体、残酷さ、見世物性を、ポップでサイケデリックな過剰へ変える。パラジャーノフは、民俗、詩、儀礼、衣装、手仕事を、静止画のような映画へ変える。寺山は、演劇、詩、歌謡、郷里、母、死者の気配を、記憶そのものを疑わせる映画へ変える。
ばらばらに見える三人に、ひとつだけ共通するものがある。
物語を、観客に奉仕する道具として扱わないことだ。
普通の映画では、画面は物語を進めるためにある。人物の行動には理由があり、場面は次の場面へつながり、結末へ向かって整理される。
この三人の映画では、画面が物語から自立している。画面が、像として、儀式として、挑発として、観客の前に立ちはだかる。
彼らの映画がわかりにくく見えるのは、そのせいだ。
けれど、わかりにくいからカルトなのではない。わからなさが観客の中に残るからカルトになる。観たあとで、まだ映画が終わっていない。誰かと話したくなる。反発したくなる。もう一度観たくなる。二度と観たくないのに、場面だけが戻ってくる。
その残り方に、カルト映画の強さがある。
いま、カルト映画は成立するのか
いまは、かつてよりずっと多くの映画にアクセスできる。
配信で検索すれば、昔なら名画座や輸入盤や海賊版を探さなければ観られなかった映画に届く。修復版も出る。解説も読める。SNSで感想も探せる。カルト映画は、秘密ではなくなった。
それ自体は悪いことではない。パラジャーノフのように、政治的に抑圧され、流通から外された作家の映画が、修復され、字幕を付けられ、別の世代に届く。ホドロフスキーや寺山のように、一部の観客の噂で生きていた映画が、広い入口を持つ。
その代わり、失われるものもある。
深夜にしか観られないこと。どこか後ろめたい場所へ行くこと。何を観たのか、すぐには説明できないまま帰ること。観客の少なさが、逆に共同体の濃さを作ること。そうした上映の条件は、配信では再現しにくい。
カルト映画は、作品だけで成立しない。観る時間、観る場所、誰と観たか、どう語られたかまで含めて成立する。
いまカルト映画を考えるなら、「これはカルトっぽい映像だ」と言うだけでは足りない。
その映画は、どんな観客を作るのか。
どんな場所で観られると、別の意味を帯びるのか。
どんな禁止や誤解や噂を通って、長く残るのか。
その問いまで含めて、カルト映画はまだ終わっていない。
何が残るのか
ホドロフスキーの砂漠では、銃声と神秘主義が同じ画面に乗る。
パラジャーノフの室内では、ざくろの赤が物語より先に記憶へ沈む。
寺山修司の村では、少年時代の記憶が、見世物のような色でよみがえる。
三人の映画は、それぞれ違う仕方で、映画を「観て終わるもの」から外へ出す。儀式へ、図像へ、記憶へ。カルト映画は、単に奇妙な映画のことではない。
映画が観客の生活の中に入り込み、別の時間を作ってしまう現象。たぶん、そちらに近い。
観たあと、うまく説明できない。好きか嫌いかもすぐには決められない。だが、画面のどこかが残っている。砂漠の色、果実の赤、見世物の村、深夜の客席。そうした断片が、普通の映画より長く、身体の中で上映され続ける。
カルト映画とは、その残り方の名前なのだろう。
予告編を観る
記事の中で触れている作品の予告編を、見返せるように並べておく。
El Topo
The Holy Mountain
The Color of Pomegranates
書を捨てよ町へ出よう
田園に死す
参照
Footnotes
-
Dartmouth Libraries Research Guides「Cult films」。https://researchguides.dartmouth.edu/filmgenres/cultfilms ↩
-
ABKCO Music & Records「El Topo」。https://www.abkco.com/store/el-topo/ ↩
-
ABKCO Music & Records「El Topo (Original Motion Picture Soundtrack)」。https://www.abkco.com/film/el-topo-original-motion-picture-soundtrack/ ↩
-
AFI Catalog「The Holy Mountain」。https://catalog.afi.com/Catalog/MovieDetails/55329 ↩
-
BFI「The Colour of Pomegranates (1968)」。https://www.bfi.org.uk/film/b4c32df4-d6e5-5c6c-9825-208d6e80da42/the-colour-of-pomegranates ↩
-
The Criterion Collection「The Color of Pomegranates」。https://www.criterion.com/films/29219-the-color-of-pomegranates ↩
-
映画.com「書を捨てよ町へ出よう」。https://eiga.com/movie/37159/ ↩
-
映画ナタリー「書を捨てよ町へ出よう」。https://natalie.mu/eiga/film/115105 ↩
-
映画.com「田園に死す」。https://eiga.com/movie/37972/ ↩