After the Fade

映画の“顔”を作ったのは誰か——匿名の宣伝物が自立したグラフィック作品になるとき


映画の“顔”を作ったのは誰か——匿名の宣伝物が自立したグラフィック作品になるとき

映画を思い出すとき、頭の中に最初に浮かぶのは、案外ストーリーではなく一枚の絵だったりする。赤と黒で塗り分けられた顔、意味ありげに配置されたタイトル文字、劇場のロビーに貼られていた縦長の紙。映画が終わっても、その「顔」は残る。

国立映画アーカイブ(NFAJ)で開催中の「再訪 日本の映画ポスター芸術」は、その顔を作ったのは誰か、という問いを正面から立てた展覧会だ。会期は2026年4月7日から7月26日まで。7階の展示室に、主に1960年代から1980年代に作られた90点以上のポスターが並ぶ。終わりが近い。

東京・京橋にある国立映画アーカイブの外観。日本で唯一の国立映画機関の建物。
東京・京橋にある国立映画アーカイブの外観。日本で唯一の国立映画機関の建物。

会場となる国立映画アーカイブ(東京・京橋)。写真:Asturio Cantabrio(Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0)

「匿名の宣伝物」という前提から始める

日本の映画ポスターは、長いあいだ作者の名前を持たなかった。

NFAJの説明はここをはっきり言い切っている。映画ポスターは「製作・配給会社のコントロールのもとで匿名的に作られてきました」。スターの顔を大きく置き、タイトルを目立たせ、封切り日を伝える。分かりやすさが最優先され、誰が描いたかは問われない。宣伝物とは本来そういうものだ。

この展覧会が面白いのは、その前提を否定するのではなく、その枠の内側と外側の両方から、枠に収まらなかった一群を拾い出していることだ。匿名の宣伝物の歴史のなかに、「これは署名されるべきグラフィック作品ではないか」と主張する一枚が、確かに混ざっている。展覧会は、その一枚に作者の名を返していく。

第1章は戦後期の《描く》ポスターにあてられている。野口久光、土方重巳。彼らはスターシステムの要請に応えながらも、『禁じられた遊び』や外国映画の美質を、絵画のスタイルで捉えようとした。ここで大事なのは、匿名の職人仕事のなかにすでに「作者性」が芽生えていた、という順序だ。作者の名を持つポスターは、1960年代に突然現れたわけではない。

1960年代、映画が別のジャンルと交差する

決定的な変化は1960年代に起きる。

粟津潔、横尾忠則、和田誠、石岡瑛子。映画業界の内部で修業した人たちではなく、グラフィックデザインの側から映画に近づいてきた新世代だ。彼らは業界の慣習を知らない。だからこそ、業界の慣習に縛られない。NFAJの言い方を借りれば、「業界のデザイン的慣習に縛られない自由な発想と技法」で、アート・フィルムとの関わりを探り始めた。

神戸市にある横尾忠則現代美術館の外観。
神戸市にある横尾忠則現代美術館の外観。

横尾忠則現代美術館(神戸市)。映画ポスターも手がけた横尾は、いまや自身の名を冠した美術館を持つ。匿名の宣伝物からグラフィック作品へ、という本展の主題を、一人の作家の後半生が体現している。写真:KishujiRapid(Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0)

この動きを加速させたのが、1962年に活動を始めた日本アート・シアター・ギルド(ATG)だった。最初は外国のアート・フィルムを配給する組織で、その配給作品のために、業界内のデザイナーも従来の規範を離れた表現を持ち込んだ。1967年にATGが低予算の日本映画製作に乗り出すと、その自由はさらに広がる。

ここで起きていたのは、単なるデザインの流行の話ではない。映画・美術・文学・演劇が、同じ一枚の紙の上で交差し始めたということだ。演劇のポスターを手がけていた者が映画のポスターを引き受け、前衛美術の作家が映画に呼ばれ、漫画家やイラストレーターがスクリーンの隣に立った。ポスターは、映画という一ジャンルの付属物であることをやめて、複数のジャンルが出会う結節点になった。

一枚ずつが、物語の要約であることをやめている

出品リストを眺めると、それぞれのポスターが「あらすじの要約」をやめていることに気づく。

横尾忠則が大島渚『新宿泥棒日記』(1969年)のために作った一枚は、映画の内容を説明していない。むしろ横尾自身のシルクスクリーン的な図像世界が前に出ていて、映画と拮抗している。デザイナーが監督に奉仕するのではなく、二人の作家が同じ作品を挟んで向かい合っているような緊張がある。

大島渚(2000年、カンヌ国際映画祭)。
大島渚(2000年、カンヌ国際映画祭)。

大島渚(2000年、カンヌ国際映画祭)。横尾忠則がポスターを手がけた『新宿泥棒日記』の監督。写真:Rita Molnár(Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.5)

石岡瑛子は、滝野晴夫との連名でコッポラ『地獄の黙示録』日本公開版(1980年)のポスターを手がけた。日本独自に作られたこの図像は、アメリカ版とは別の強度で記憶されている。輸入された映画に、日本のデザイナーが別の「顔」を与える——配給という仕事のなかに、翻訳や再創造に近い行為が混ざっていたことが分かる。

和田誠が草月シネマテークの上映企画「怪奇と幻想」(1967年)のために作ったポスターは、そもそも一本の映画のためのものですらない。上映というイベント、映画を観る場そのものをデザインの対象にしている。映画文化はスクリーンの上だけにあるのではなく、それを囲む場のデザインまで含めて動いていた。

文学との交差も見える。杉浦康平と鈴木一誌による『限りなく透明に近いブルー』(1979年、村上龍監督)のポスター。小説家が自作を自ら監督した映画に、ブックデザインの文脈を持つデザイナーが関わる。第4章には、赤瀬川原平、林静一、佐藤晃一、そして『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』(1980年)の生賴範義まで並ぶ。生賴が日本のために描いた油彩のイラストは、後に海外でも使われることになった。日本の映画ポスターが、逆に世界の映画の「顔」を作った例だ。

スクリーンの外に、映画は残る

このサイトは、作品が終わったあとに残るものを扱っている。映画ポスターは、その主題にほとんど文字どおり重なる。

上映が終われば、映画は劇場から消える。フィルムは保存庫に戻り、やがて観る手段そのものが失われていくこともある。1910年代の日本映画の現存率は推定0.2%とされ、観たくても観られない映画は膨大にある(これは同じNFAJのフィルム保存の仕事で触れた通りだ)。そのとき、ポスターの一枚が、失われた映画の唯一の視覚的痕跡として残ることがある。

ポスターは、映画の残像だ。そして残像でありながら、それ自体が独立して見られる強度を持ちうる。映画を観ていなくても、横尾の一枚は横尾の一枚として立つ。作品が消えても、その「顔」は自立して生き延びる。NFAJがフィルムだけでなくポスターや台本、スチール写真を収蔵しているのは、映画文化がスクリーンの外にも広がっているという認識の表れだろう。

ある訪問者は、この展覧会を歩いたあと、「今ではあまり見なくなった、イラストでのポスターも多数あり面白かった」と書き、抽象的なポスターが今あってもいいのではないか、と記していた(note の一般公開された訪問記より)。現在の映画ポスターは、俳優の顔写真を整然と並べる方向にかなり収束している。分かりやすく、綺麗で、そして——多くの場合、誰が作ったか分からない。1960年代に一度開いたはずの「作者の名を持つポスター」という回路は、いまふたたび閉じかけているのかもしれない。

「グラフィック作品」と呼ぶことの、小さな留保

最後に、少しだけ立ち止まっておきたい。

映画ポスターを「自立したグラフィック作品」として展示することには、確かな価値がある。匿名に埋もれていた仕事に名を返し、デザイン史の対象として正当に扱う。それは遅れてきた敬意だ。

ただ、「芸術」と呼び直すことには、小さな取りこぼしもある。ポスターは、どれだけ自立して見えても、封切りを告げ、客を呼ぶために発注された宣伝物でもあった。その二重性——作品でありながら、機能を負った印刷物でもあること——を消してしまうと、かえって面白さが減る。第1章の野口久光や土方重巳のような、匿名の枠のなかで質を上げていった職人的な仕事が、「作者の名を持つ前衛」の物語の前座に整理されてしまうのも、少し惜しい。名を持つ者だけが作者なのではない。

だからこの展覧会をいちばん豊かに観る態度は、たぶんこうだ。これは芸術か宣伝か、と問うのではなく、宣伝であることをやめないまま、どこまで作品になれたのかを見る。その振れ幅のなかにこそ、1960〜80年代の映画ポスターの熱がある。

映画の顔を作ったのは誰か。その問いに、90点以上の固有名詞で答えている展覧会が、7月26日に閉じる。観られる時間は、もうそれほど長くない。

参照