After the Fade

ラブソングは感情を貧しくしたのか。カラオケが増幅した「歌いやすい恋」

音楽; ラブソング; カラオケ; ポップス; 批評
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ラブソングは感情を貧しくしたのか。カラオケが増幅した「歌いやすい恋」

ラブソングは、たぶん世界でいちばん許されている定型文だ。

会いたい。忘れられない。好きなのに届かない。別れたのにまだ残っている。君だけだった。もう戻れない。もちろん、どれも嘘ではない。人はほんとうにそう感じる。けれど、あまりにも流通し、歌われ、共有されすぎたせいで、感情の複雑さより、感情の言いやすさのほうが先に立ってしまう

私はラブソングが嫌いだ、と単純に言いたいわけではない。良いラブソングはいくらでもある。恋や喪失が音楽の中心に来るのも不思議ではない。だが、それでもなお、ポップミュージックにおけるラブソングの多さには、少し警戒したほうがいいと思う。

ラブソングは、感情を豊かに書ける形式であると同時に、感情を既製品のサイズへ揃えてしまう形式でもある。

ラブソングは「普遍」ではなく、「強い規格」でもある

Billboard と ChartCipher による 2023 年の分析では、主要チャートにおける歌詞テーマの中心は依然として love で、楽曲の 44〜51%を占めていた。1 ポップソングの中心が恋愛であることは、いまさら驚く話ではない。

だが、この事実を「それだけ恋が普遍的だから」で済ませると、少し雑になる。

ラブソングが強いのは、恋愛が誰にでも起きるからだけではない。感情を三分から五分で、すぐわかる形に畳みやすいからでもある。語り手と相手がいる。距離がある。欲望か喪失がある。サビで感情をもう一段持ち上げられる。骨組みが強い。聴き手もすぐ自分を入れられるし、作る側も売る側も歌う側も扱いやすい。

恋愛は、強い感情であると同時に、フォーマットに乗せやすい感情なのだと思う。

家族への曖昧な怒り。労働で少しずつ削られる自尊心。友人関係の微妙な断絶。年齢を重ねることへの退屈な恐怖。地方にいることの鈍い閉塞。こういうものも、多くの人の中にある。けれど、恋愛ほどきれいにサビへ持っていきにくい。言葉にすると濁るし、歌にすると説明が増える。だからポップスは、そこをしばしば恋へ翻訳してしまう。

恋愛は、歌の中で「人格」より先に「役割」になる

ラブソングのなかで歌われる「私」と「あなた」は、しばしば驚くほど薄い。

あなたが何を考え、どういう癖があり、何に怯え、どんな政治や階級や身体を生きているのかは、そこまで重要ではない。重要なのは、「去る人」「残される人」「待つ人」「追う人」「裏切る人」「忘れられない人」という役割だ。

この薄さが、ただ悪いとも言い切れない。薄いからこそ、誰でも入り込める。ポップソングは小説ではないし、数分で届かなければならない。

ただ、その利点は裏返る。恋愛の固有性が削られ、感情が「みんなが知っている型」へ整えられると、私たちはしばしば自分の恋を経験する前に、先にラブソングの型を経験してしまう。悲しいとき、どんな悲しみ方をすればよいか。未練があるとき、どんな言い回しを使えばもっともらしいか。愛されたと感じたいとき、どんな比喩を借りればそれらしく見えるか。そういう雛形が、すでに耳の中に入っている。

感情を言葉にできるようにしてくれる、という意味でラブソングは助けになる。けれどその一方で、まだ言葉になっていない自分の感情を、早すぎる既製品に押し込んでしまうこともある。

カラオケは、その既製品を「自分の声」に見せる装置だった

ここでカラオケが出てくる。

日本政府の広報誌 Highlighting Japan は、カラオケを 1970 年代初頭に日本で生まれ、その後「karaoke box」の普及によって広い層に浸透した文化として紹介している。2 カラオケはただの娯楽ではない。歌手ではない人間に、他人の歌を自分の声でなぞらせる技術だった。

この点は本当に大きい。

ラブソングは、聴くだけでも十分強い。けれどカラオケに入ると、少し別のものになる。借りものの感情を、自分の息と抑揚でいったん私有化できてしまうからだ。

失恋していなくても失恋の歌は歌える。そこまで誰かを愛していなくても、「君しかいない」と歌える。別れを決断していなくても、サビの中ではきっぱり去れる。カラオケは、感情の真偽を問わない。その代わり、感情のフォームだけはかなり正確に要求する。盛り上がるところで盛り上がり、息を漏らすところで漏らし、震えるところで震える。中身そのものより、感情の演技可能性が前へ出る。

だからラブソングはカラオケで強い。

うまく歌えるからではない。うまく「それっぽく」なれるからだ。

カラオケ文化は、恋愛感情を民主化した。でも均質化もした

もちろん、これはカラオケの悪口だけではない。

渡辺秀夫は、日本のカラオケを、集団の文脈のなかで個人表現を可能にする実践として論じている。3 また、ペリーはカラオケボックスを、感情の放出や人間関係の調整に関わる社会的空間として読んでいる。4

たしかにそうだと思う。カラオケは、人前で感情を出すのがあまり得意ではない社会にとって、かなり重要な抜け道だった。歌っているあいだだけは、他人の言葉を借りて、少しだけ自分の本音に近づける。会社の二次会でも、学生の夜でも、別れた直後の友人同士でも、それはずっと機能してきたはずだ。

ただ、その民主化には副作用もある。

誰でも歌えるようになったということは、誰でも同じような感情の身振りを繰り返せるようになった、ということでもある。恋愛の苦しさや喜びは、歌によって共有されやすくなった。けれどそのぶん、共有しやすいものばかりが「歌うに値する感情」として前へ出るようにもなった。

怒りは少し扱いにくい。労働の空虚さは場を冷やしやすい。政治は空気を壊す。家庭は重すぎる。性愛の複雑さは露骨すぎる。友情は照れくさい。そのとき、恋愛はちょうどいい。重すぎず、軽すぎず、個人的でありながら公共空間に出しやすい。

カラオケは、ラブソングを爆発的に広めたというより、ラブソングが最も自然に機能する社交の場を与えたのだと思う。

ラブソングは、ときどき「感情の避難所」ではなく「感情の代用品」になる

ここがいちばん批判的に言いたいところだ。

ラブソングは、ときに感情を助ける。うまく言えない気持ちに輪郭を与える。失恋の夜には、誰かが先に言ってくれた言葉として響く。そこにはたしかに救いがある。

だが同時に、ラブソングは感情の代用品にもなる。

ほんとうは恋愛の話ではないのに、恋愛の話として処理してしまう。
ほんとうは相手のことが悲しいのではなく、自分の自己像が壊れたのに、その違いを見ない。
ほんとうは孤独や階級やジェンダーや労働の問題なのに、ひとまず「会いたい」に変換してしまう。

ラブソングは、複雑な経験を恋へ翻訳する。翻訳そのものは悪ではない。だが翻訳が強すぎると、元の経験の凸凹が消える。

ポップスの世界では、恋愛はしばしば「もっとも個人的なこと」として歌われる。けれど実際には、それはかなり社会的に訓練された個人感情でもある。どう愛し、どう傷つき、どう惜しみ、どう忘れられないふりをするか。そういう演じ方は、かなり広く配布されている。

それでも、残るラブソングはある

ここまで書くと、ラブソングは全部だめだと言っているように見えるかもしれない。そうではない。

残るラブソングは、恋愛を歌っているのに、恋愛の一般論へ逃げない。相手を役割ではなく、癖のある一人として書く。きれいな未練の型へ回収せず、感情の見苦しさや沈黙や時間差まで残す。あるいは、恋愛を歌いながら、その背後にある階級、都市、家族、身体、ジェンダーまでちゃんと響かせる。

そういう歌は、恋を歌っているというより、恋を通して人間がどう歪むかを歌っている。

私はラブソングそのものより、ラブソングだけが感情の王様みたいな顔をしている状態を疑いたいのだと思う。

何が残ったのか

カラオケでラブソングを歌った夜のことを思い出す。

上手かったかどうかより、「あの歌、わかる」と誰かが笑ったことのほうが残る。マイクを回しながら、他人の歌なのに一瞬だけ自分の話みたいに聞こえた、その感じが残る。その場ではたしかに救われる。そこに嘘はない。

ただ、そのあとで少し立ち止まりたくもなる。

私は本当にあの感情を歌ったのか。
それとも、歌いやすい感情のフォームに自分を合わせただけだったのか。
あの夜に歌えなかったものは、何だったのか。

ラブソングは、私たちの感情を豊かにしてきた。たぶん、それは本当だ。けれど同時に、私たちの感情を恋愛というひとつの王道へ、何度も並ばせてもきた。

カラオケはその整列を、さらに親密で、さらに無害に、さらに反復可能なものにした。

だからラブソングを批判するというのは、恋を笑うことではない。
恋ばかりが、歌うに値する感情として流通している状態を疑うことだ。

その疑いからしか、まだ歌われていない感情のためのポップスは出てこない気がする。

  1. Billboard / ChartCipher, “The Most Common Lyrical Themes & Moods on Billboard’s Charts: Love Songs in the Lead.” 2023年の主要チャートで love が 44〜51% を占めたとする分析。https://www.billboard.com/pro/common-lyrical-themes-moods-billboard-charts-2023/

  2. Highlighting Japan, “The Rise of Karaoke.” 日本発の文化としてのカラオケと karaoke box の普及を概説している。https://www.gov-online.go.jp/pdf/hlj/20180601/28-29.pdf

  3. Hideo Watanabe, “Karaoke Learning in Japan: Individual Expression in a Group Context.” カラオケを、集団的文脈の中での個人表現として読む論考。https://asian.fiu.edu/jsr/watanabe-karaoke-learning-in-japan-individual-expression.pdf

  4. Donovan Reuel Perry, Coming of Age in the Box: Social Function and Japanese Karaoke. カラオケボックスの社会的機能に関する研究。https://collections.lib.utah.edu/ark:/87278/s6gx4sdk