After the Fade

『gen Atlas』で、上田文人の巨大なものは機械になる

ゲーム ; gen Atlas ; 上田文人 ; genDESIGN
3025 文字

『gen Atlas』で、上田文人の巨大なものは機械になる

『gen Atlas』のトレーラーを見てまず残るのは、「上田文人がSFをやる」という驚きよりも、もっと古い感触だった。小さな身体が、巨大なもののそばにいる。世界は広く、説明は少なく、足元には砂があり、遠くにある機械の輪郭がこちらを黙って待っている。

ただし、そこにいる巨大なものは、もう獣ではない。『人喰いの大鷲トリコ』のように目を合わせ、迷い、機嫌を持つ存在ではなく、分離し、接続し、別の身体へ移る機械として置かれている。『gen Atlas』で面白いのは、上田作品の中心にあった「巨大な存在とどう関係を結ぶか」という問いが、生き物への共感から、機械の身体を借りる操作へ移っているように見えることだ。

この記事は、まだ発売前の作品についてのレビューではない。公開トレーラーと、現時点で出ている上田文人のインタビューをもとに、そこから読める変化だけを書く。

小さな身体と、巨大なもの

上田文人の作品を思い出すとき、いつも中心にあるのは、言葉で説明される世界設定よりも、身体の大きさの差だと思う。

『ICO』では、手を引くという小さな接触が世界のルールになる。『ワンダと巨像』では、人間の身体は巨像の表面に張りつき、登り、刺すことでしか相手に届かない。『人喰いの大鷲トリコ』では、少年の身体はトリコの身体に乗り、呼びかけ、待ち、時には思い通りに動かない巨大な生き物に振り回される。

どれも、プレイヤーの力をまっすぐ増幅するゲームではなかった。むしろ、自分より大きいものに近づく不安、触れるまでの距離、動いてくれない相手を待つ時間が、ゲームの手触りになっていた。

『gen Atlas』のトレーラーにも、その距離は残っている。人型の小さな存在がいて、そこに巨大なロボットがいる。砂の広がり、廃墟のような構造物、頭部だけで飛行する機械、別の機体へ接続するように見える挙動。画面の中で重要なのは、ロボットが単に強い兵器として見えることではなく、プレイヤーの身体がその巨大さにどう近づき、どこから入り、どこまで自分のものにできるのかということだ。

この「入る」「つなぐ」「借りる」という感覚は、上田作品の系譜ではかなり大きな変化に見える。巨像は倒す対象だった。トリコは完全には制御できない相棒だった。『gen Atlas』のロボットは、少なくともトレーラー上では、身体を切り離し、別の身体へ乗り移ることができるものとして映っている。巨大なものとの関係が、狩猟でも飼育でもなく、接続と移動になっている。

ロボットは、感情のない巨像なのか

ここで簡単に「今回はロボット版トリコだ」と言ってしまうと、たぶん雑になる。トリコが強かったのは、命令できそうで命令しきれない生き物だったからだ。近くにいるのに、完全にはこちらの道具にならない。そのもどかしさが、最終的には愛着に変わっていく。

ロボットは、そのままでは別の存在だ。機械は、命令、接続、操縦、交換、修理といった語を呼び込む。プレイヤーが巨大なロボットを動かせるなら、それは相棒であると同時に、身体の拡張でもある。そこには「わかりあえない生き物を待つ」感覚とは違う緊張がある。借りた力で何をするのか。機械の身体を使うとき、自分の責任はどこまで広がるのか。

PC Gamer のインタビューで、上田文人は『gen Atlas』の出発点について、巨大ロボットに乗りたい、巨大ロボットと戦いたいという欲望から始まったと語っている。SF世界を先に決めたというより、ロボットというテーマから世界が広がった、という説明だ。これはかなり素直な出発点に見える。複雑な設定の前に、「あの大きなものに乗ってみたい」という身体的な願望がある。

上田作品のよさは、こういう単純な願望を、単純な快楽のまま終わらせないところにあった。巨像を倒したい。しかし倒すと、どこか取り返しのつかないことをした感触が残る。大きな生き物と一緒にいたい。しかし相手はペットのようには動いてくれない。『gen Atlas』でも、ロボットに乗ること、巨大な機械を動かすことが、ただの万能感で終わるかどうかが重要になる。

トレーラーの砂と廃墟は、その万能感を少し冷ましている。機械は新しく輝いているというより、何か長い時間のあとに残された身体に見える。巨大なものへ乗り込む興奮と、すでに壊れかけた世界を歩く静けさが、同じ画面に置かれている。

撃つことは、ジャンルではなく存在の手段になる

『gen Atlas』について意外に見える要素のひとつは、射撃だ。上田文人作品と銃火器の組み合わせは、少なくとも表面的にはかなり遠い。けれど PC Gamer のインタビューで上田は、射撃はこのゲームのメインメカニックではないと説明している。課題を越えるための手段のひとつであり、プレイヤーがその世界に存在していると感じるためのもの、という位置づけだ。

この説明は、『ICO』の敵との関係を思い出すとわかりやすい。『ICO』は敵を全部倒して点数を稼ぐゲームではない。だが、影のような敵が現れた瞬間、プレイヤーはそこで自分が何かをしなければいけないと感じる。棒を振ることは、戦闘の快楽というより、その場にいることの証明になる。

もし『gen Atlas』の射撃もそういうものなら、銃はジャンルを決める記号ではなくなる。シューティングゲームになるための銃ではなく、世界へ干渉するための小さな手段になる。撃つことがスコアや征服ではなく、「ここにいる」という感覚を支えるなら、それは上田作品の文法から大きく外れてはいない。

むしろ気になるのは、その射撃がロボットの身体とどう結びつくかだ。小さな人型の身体で撃つのか。巨大な機体で撃つのか。撃つ対象は敵なのか、装置なのか、世界の一部なのか。上田作品では、操作の意味が物語の意味と近くに置かれることが多い。だから『gen Atlas』での射撃も、単なるアクション要素としてではなく、プレイヤーがどの身体で、どの距離から世界に触るのかという問題として見たい。

砂と時間

トレーラーの画面で、ロボット以上に気になるのは砂かもしれない。砂は、未来的な機械を一気に古いものにする。金属の輪郭を柔らかくし、構造物を埋め、歩いた跡を残し、すぐ消す。SFの世界でありながら、そこには未来へ進む明るさより、何かが終わったあとの時間がある。

上田作品の空間は、いつも少し遅れている。『ICO』の城も、『ワンダと巨像』の禁断の地も、『トリコ』の遺跡も、いま作られた場所ではなく、誰かが去ったあとに残された場所として感じられる。『gen Atlas』の砂漠的な画面も、その線に近い。違うのは、残っているものが石の遺跡や生き物の身体ではなく、巨大な機械の残骸や機体になっていることだ。

機械は普通、未来を連れてくるものとして描かれやすい。だが砂に埋もれた機械は、むしろ未来がすでに過去になった姿に見える。人間が作ったもの、あるいは人間に近い何かが作ったものが、時間に負けていく。その中で、プレイヤーはまだ動く部分を見つけ、接続し、身体として使う。

ここに『gen Atlas』の寂しさがあるように思う。巨大ロボットは少年の日の夢でもある。けれどこのゲームのロボットは、まっさらな格納庫から出撃するヒーローの機体ではなさそうだ。長い時間のあとに残り、身体を失い、頭部だけで飛び、別の身体を探すものとして現れる。もしそうなら、これは「ロボットに乗るゲーム」であると同時に、失われた身体をどう引き受けるかのゲームでもある。

上田作品は、まだ小さな身体から始まる

『gen Atlas』は、上田文人作品としてはかなり新しく見える。SF、ロボット、射撃、マルチプラットフォーム、Epic Games Publishing。これまで PlayStation の記憶と強く結びついてきた作家の作品が、最初からより広い場所へ出ていくことも含めて、環境は変わっている。

それでも、トレーラーを見たあとに残る中心はあまり変わっていない。小さな身体が、巨大なもののそばにいる。自分だけでは届かない場所がある。大きな力を借りなければ進めないが、その力を借りることには、たぶん何か重さがある。

上田文人の作品は、プレイヤーに「強くなる」ことだけを渡してきたわけではない。むしろ、自分より大きいものに触れるときの不自由さ、頼ることの怖さ、倒すことの後味、待つことの時間を渡してきた。『gen Atlas』が本当に面白くなるとしたら、巨大ロボットというわかりやすい夢を、そのまま快楽として消費させず、機械の身体を借りることの手触りまで掘るときだと思う。

生き物ではない巨大なものと、どう関係を結ぶのか。命令できるように見える機械が、どこまでこちらの身体になり、どこから他者として残るのか。『gen Atlas』のトレーラーは、まだ答えではなく、その問いの入口として残っている。

参照