雅楽は、なぜ揃わないまま立っているのか
雅楽をはじめてまともに聴くと、まず「整っていない」と感じる人が多いと思う。音程が西洋音楽の平均律みたいに真っ直ぐ閉じていない。拍が機械のように揃わない。息の音、リードのざらつき、打楽器の入りの硬さが、そのまま前に出てくる。
でも、その「整っていなさ」は未熟さではない。むしろ逆で、均質に揃えることを最終目的にしない音楽として、雅楽はかなり徹底している。
特殊なのは、ただ古いからではない。楽譜だけでは渡らない。指揮者を置かなくても崩れない。ノイズを削らない。完全なユニゾンを目指さない。それでも全体として立ち上がる。その作り方が、いまの多くの音楽の常識からかなり遠い。
楽譜の前に、唱歌と身体がある
「雅楽は楽譜がない」と言い切るのは、厳密には違う。近代以降には標準譜も整えられているし、譜本それ自体も長い歴史を持つ。けれど、少なくとも雅楽を譜面だけで再現できる音楽と考えると、かなり大事な部分を取り逃がす。
雅楽では、旋律や運びを唱えて覚える 唱歌 が大きな役割を持つ。どこで音を押し出すか、どこで少し溜めるか、どこで揺らすか。そういう、音の立ち上がりの癖や間の取り方は、五線譜のような見た目だけでは渡りきらない。譜面は記憶の補助にはなるが、音楽そのものの完全な設計図にはならない。
だから雅楽の伝承は、知識というより身体の受け渡しに近い。音程表より、口で唱えた輪郭。拍子記号より、どの息で入るか。ここでは「読む」ことより「写す」ことのほうが強い。
指揮者なしで、時間を共有する
もうひとつ面白いのは、雅楽が西洋オーケストラのような意味での指揮者を前提にしていないことだ。外から大きく拍を振る人がいて、その一人に全員が合わせる、という構造ではない。
もちろん、合図や主導がまったくないわけではない。打物、とくに 羯鼓 の役割は大きいし、経験の深い奏者が流れを支える場面もある。けれど、それでも最終的に頼っているのは、全員が同じ一本の拍に従うことではなく、互いの息と音を見ながら時間を共有することだ。
この感覚は、テンポを固定して前へ進む音楽とはかなり違う。雅楽の時間は、拍節を押し出すというより、空間に広がっていく。だから、少し遅い、少し早い、少し長い、少し短いという差が、単なるミスとして処理されにくい。むしろその差があるから、音楽が平板にならない。
ノイズを消さない
雅楽の特殊さをいちばん耳で理解しやすいのは、たぶん音色だ。
篳篥 は鋭く、鼻にかかり、少し潰れたような圧を持つ。龍笛 は空気を含んだ線として飛ぶ。笙 は和音というより、光の板みたいな塊で空間に滞留する。ここに打物の硬い点が入ると、音は「きれいに整列した成分」ではなく、摩擦を含んだまま重なる。
このときのノイズは、音楽の外にある汚れではない。息が入る音、リードが擦れる感じ、倍音が少し濁ること、音の立ち上がりに角が残ること。その全部が、雅楽の輪郭を作っている。
現代の録音音楽では、ノイズは除去対象になりやすい。ピッチは補正され、アタックは整理され、不要な帯域は削られる。雅楽はそこを逆に進む。音のざらつきが、響きの中心に残る。だから聴いていて、音色そのものに時間が宿る。
揃えないことで厚みを作る
雅楽を説明するとき、しばしば ヘテロフォニー という言葉が使われる。ひとつの旋律を、複数の楽器が少しずつ違う形でなぞる、あの重なり方のことだ。
ここでは、全員が完全に同じものを同じタイミングで鳴らす必要がない。むしろ少し違うからこそ、音が厚くなる。ある楽器は線を伸ばし、ある楽器は節を折り、ある楽器は息の影を付ける。そのずれが、縦の和声とも、対位法的なポリフォニーとも違う厚みを作る。
だから雅楽は、「揃えない」のではなく、揃え切らないことで成立している と言ったほうが近い。完璧な一致を目標にすると、たぶん別の音楽になってしまう。
同類はあるのか
少なくとも、私が今回当たった範囲では、雅楽にそのまま対応する「同類」はあまり見つからない。むしろ、いくつかの民族音楽や儀礼音楽に、部分的に近い原理 が散っている。
ケチャ
バリのケチャは、男声の反復的な「cak」の重なりで進む。楽器より先に、身体と声のインターロッキングが骨格になる。譜面より口伝、均一な一声より分業された集団音、という点では、たしかに雅楽と接続できる。
ただし、近いのは方法の一部であって、響きの性格はかなり違う。ケチャは密で、打楽器的で、渦のように回る。雅楽はもっと疎で、持続が長く、空白が大きい。ケチャが群衆の駆動なら、雅楽は空間の張力に近い。
中央アフリカの Aka のポリフォニー
いわゆる「ピグミー」と総称されてきた中部アフリカの諸集団の音楽、とくに Aka のポリフォニーも比較の手がかりになる。そこでは複数の声が独立して動き、即興的な変化を含みながら、共同体の音の網を作る。口伝で受け継がれ、個々の声の違いが消されないという点では、雅楽と通じるものがある。
ただ、ここも決定的に同じではない。Aka の音楽は多声的で、各声部がより自律している。雅楽の厚みは、それよりもひとつの旋律の周りに違う陰影が集まる 感覚に近い。ポリフォニーというよりヘテロフォニーの世界だ。
似ているより、照らし合う
だから、ケチャや Aka のポリフォニーは「雅楽と同じ種類の音楽」ではない。けれど、楽譜中心ではないこと、完全なユニゾンを価値の頂点に置かないこと、音のざらつきや個体差を音楽の内側に残すこと という観点では、雅楽の輪郭を外から照らしてくれる。
比較して見えてくるのは、雅楽が単に古典保存の対象ではなく、かなりラディカルな集団音響のひとつだということだ。
石田多朗が、雅楽を「現在の作曲原理」として扱う
こういう雅楽の特殊さを、保存ではなく 現在形の作曲 として引き受けようとしている人のひとりが石田多朗だと思う。
石田は東京藝術大学大学院を修了後、雅楽作曲に取り組み、オリジナル楽曲「骨歌」で広く注目された。近年は『SHOGUN』での仕事や、アルバム『常世 TOKOYO』で、雅楽と現代音楽、ストリングス、電子音響の接続を押し広げている。
彼の仕事が面白いのは、雅楽を「昔の宮廷音楽」として解説するだけではなく、揃わなさ、ざらつき、時間の伸び縮みそのものを作曲の素材として扱おうとする ところにある。公的な伝承の外に出たとき、雅楽は単なる保存芸ではなく、いまでも新しい音楽を書くための方法になりうる。そのことを、石田多朗の活動はかなりはっきり見せている。
もちろん、彼ひとりで雅楽の現在を代表させるべきではない。けれど、雅楽を外から見ている人にとって、何がそんなに特殊なのかを言葉にし、さらに作品として返している点で、かなり重要な入口だと思う。
曲を聴く
石田多朗の仕事を一曲だけ置くなら、私はまず 「骨歌」 を置きたい。雅楽の音色感をただ引用するのではなく、息、ざらつき、重なりの不均質さを、ひとつの現在形の音楽として組み直そうとする意志が見えやすいからだ。
参照
- 文化デジタルライブラリー — The Performers: Fundamentals
- 文化デジタルライブラリー — Forms of Performance: The World's Oldest Orchestra
- AAWM Journal — Linguistic-Syllabic Cognitive Mapping of Sound in Japanese Culture, Interpreted through Japanese Gagaku Music
- UNESCO — Polyphonic singing of the Aka Pygmies of Central Africa
- Drifter — 『SHOGUN』で世界を驚かせた作曲家、雅楽×クラシックで世界へ挑む—新作『常世』
- 石田多朗 — 骨歌