After the Fade

井上涼は、美術を「覚えるもの」から「口ずさめるもの」へ変える

音楽; 井上涼; びじゅチューン!; ハコダテミュージカル; アニメーション
1832 文字

井上涼は、美術を「覚えるもの」から「口ずさめるもの」へ変える

井上涼の作品に触れたあとに残るのは、「勉強になった」という手応えより、妙に口の中に残るリズムのほうだと思う。美術や土地の記憶のように、本来なら少し身構えて受け取りがちなものが、変な歌詞や少しとぼけた絵、妙に忘れにくい旋律を通って、ふいに身体の近くまで降りてくる。

この軽さは、単なるわかりやすさではない。美術をやさしく噛み砕くというより、美術と出会う距離そのものを組み替える軽さだ。

井上涼は、解説者というより変換者に近い

井上涼は、公式サイトでは金沢美術工芸大学卒業のアーティストとして紹介されている。作品に合わせた音楽も自ら作詞・作曲・歌唱まで手がける、という短い説明だが、仕事の核はかなりよく出ている。1

NHK の『びじゅチューン!』でも、井上涼は出演に加え、作詞・作曲・歌・アニメーション制作を担ってきた。NHK の番組紹介文は、彼の「びじゅつへのユニークな目のつけどころ」から、ポップな絵、奇想天外な歌詞、忘れられないメロディーが生まれると書いている。2

井上涼を見ていておもしろいのは、「美術を説明する人」ではなく、美術を別の形式に移し替える人だというところだ。名画や作家の背景を整理して伝えるのではなく、作品のなかに潜んでいた妙な動きや変な姿勢、少し笑えるズレをつかまえて、歌とアニメへ渡していく。受け手は知識として美術に近づく前に、まず変なフレーズや妙な運動として作品を覚えてしまう。

美術を神棚から降ろし、まだ雑にしない

井上涼の仕事は親しみやすい。けれど、その親しみやすさは、対象を雑に扱うこととは違う。ここがかなり大事だと思う。

彼の仕事では、美術はしばしば笑いの回路を通る。とはいえ、その笑いは名画を茶化して終わる笑いではない。むしろ作品の中に最初からあった過剰さや奇妙な構図、ぎこちない身体性を見つけて、そこへ現代の耳が引っかかる入口を作っている。美術館で静かに見上げるしかなかったものが、急に鼻歌みたいな形でこちらへ戻ってくる。

だから井上涼は、美術を低くする人ではなく、美術の高さを別の通路から通り直させる人なのだと思う。権威を壊すのではなく、その手前にある緊張を少しだけほどく。すると作品は、教養の記号ではなく、変な手触りを持つ具体物として残りはじめる。

代表作のひとつ、『ハコダテミュージカル』

代表作のひとつとして挙げたいのが、『ハコダテミュージカル』だ。YouTube では現在 「Hakodate Musical Opening Video」 のタイトルで公開されており、説明欄では「はこだてみらい館 Media Wall 上映コンテンツ『ハコダテミュージカル』井上涼さん作」とされている。公式サイトでも、はこだてみらい館の横14.4m、縦2.4mの高精細 LED ディスプレイで上映する「すんごい横長なアニメのオープニング」と紹介されている。制作年は 2016 年。3 4

この時点で、かなり井上涼らしい仕事だとわかる。ふつうのテレビ画面ではなく、極端に横長の Media Wall を前提にしているところがまずいい。井上涼の表現は、歌やアニメ、反復、群れ、行進のような運動と相性がいいが、横に長い画面は、その運動をさらに街路やパレードに近いものへ変える。作品が一枚の絵として完結するというより、場所そのものが歌い出すための入口になる。

「ハコダテミュージカル」という題名にも、地域紹介の素朴さと、舞台がいきなり始まるような不自然さが同居している。井上涼の強みは、こういう少しちぐはぐな接続を、そのまま作品の魅力へ変えてしまうところにある。地方都市の施設映像や公共空間の上映作品は、情報が先に立つと途端に味気なくなる。けれど井上涼が入ると、説明より先に、歌や絵の調子が空間をさらっていく。その順番の入れ替わりがある。

公開されている作品ページとスチルを見るかぎり、この仕事は「函館を紹介する映像」というより、函館という場所に、少し奇妙で祝祭的なテンポを与える試みに見える。見る側に土地の知識を手渡すのではなく、その土地の名前を口の中で転がしたくさせる。そういう入口の作り方が、井上涼にはよく似合う。

見終わったあとに残るのは、知識よりも再訪したくなる感覚

井上涼の作品は、美術や場所に対して「正しい見方」を授けるタイプのものではない。むしろ、一度見たものをあとからもう一度見たくさせる。その二度見の欲望が強い。

名画でも、展示でも、街でも、最初の一回ではまだ遠いものがある。けれど井上涼は、そこへ歌を差し込むことで、その遠さをいったん妙な親しさに変える。その親しさは単なる消費で終わらず、「元のものはどんな顔をしていたのか」と逆に見返したくなる感覚へ戻っていく。

だから井上涼の仕事は、教育と娯楽のあいだにあるというより、記憶の入り口を設計する仕事と呼ぶほうがしっくりくる。見たあとに残るのは、作品名や場所の名だけではない。節回しや画面の動きまで一緒に残る。その残り方があるかぎり、美術や土地は、ただの知識ではなく、また触れたくなる具体物として戻ってくる。

動画を見る

本文の中心にある『ハコダテミュージカル』は、現在 YouTube でこの形で公開されている。

Hakodate Musical Opening Video

  1. 井上涼オフィシャルサイト のプロフィール欄。

  2. びじゅチューン!の最新情報 - NHK

  3. Hakodate Musical Opening Video の現在の公開タイトルと説明欄。

  4. ハコダテミュージカル | 作品 | 井上涼オフィシャルサイト