ザコシがAIに向かうとき——芸人とテクノロジーの距離感の変容
ザコシがAIを「いってる」
橋本ザコシショウは、日本でもっとも「個人の過剰さ」が武器になっている芸人のひとりだ。
身体全体で叫ぶものまね、意味をはみ出した発声、カテゴリを無視したフォーマット。2016年のR-1グランプリで優勝したとき、多くの人が感じたのは「こういうのが優勝するのか」という驚きだったと思う。コンテストという場のルールを守りながら、その内側でルールを無効化するような芸だった。
そのザコシが、「AIいってんの?」というシリーズを作っている。1
タイトルの語感がいい。「いってんの?」は問いかけのようで、どこか挑発的でもある。AIが何かやっているのを、斜め上から覗いているような構え。その距離感がシリーズを通じて変化するのか、最初から一定のものなのか。
かまいたちが笑ってはいけなかった夜
時計を少し巻き戻す。
2023年初頭、ChatGPTが一般公開されてすぐのころ、かまいたちがYouTubeに動画をあげた。「かまいたちがChatGPTのAI回答を笑わず読み上げ対決!」というタイトルで、いわゆる「笑ってはいけない」フォーマットにChatGPTの出力を組み合わせた企画だ。2
フォーマットは単純だった。ChatGPTに何かを聞く。出てきた回答を、濱家と山内が真顔で読み上げようとする。AIの出力がおかしかったり、微妙にズレていたりする部分で、どちらかが吹き出す。
笑いを作っているのは人間だ。AIが「ボケ」を担うが、それを面白いと判定するのは芸人だ。ChatGPTは当時、文章の整合性が崩れたり、質問の意図を外したりすることが多かった。その「ズレ」が笑いになった。
「AIは変なことを言う機械だ」という前提の上に動く企画。人間は審査員の席にいた。
技術の成熟と芸人の立場の変化
それから3年近くが経った。
ChatGPTが登場したとき、多くのコンテンツは「これ、変なんです」「こんなこと言うんです」という紹介の文法で作られた。異質なものへの好奇心と、少しの優越感。「機械はまだここまでしかできない」という確認の儀式でもあった。
AIツールは急速に変わった。
文章生成の精度は上がり、画像生成は実用段階に入り、音楽生成もSUNOをはじめ複数のサービスが競合するようになった。「AIが変なことを言う」という前提は成立しにくくなった。「AIが普通のことを上手くやる」のが当たり前になってきた。
ザコシの「AIいってんの?」はシリーズとして継続している。一回限りの「見てみた」ではなく、繰り返し向き合うフォーマットを選んでいる。AIを話題として消費するより、素材として使い続ける側に立っている。
かまいたちが「面白い機械を見物する」立場だったとすれば、ザコシは「その機械と一緒に何かをやろうとしている」ように見える。
過剰さと平均値が向き合うとき
AIの生成モデルは、学習データから「もっとも自然なパターン」を選び続ける機械だ。多くのデータに共通する傾向に収束する。「平均値」を目指す。
ザコシの芸は平均値からの逸脱によって成立する。記号を過剰に引き伸ばし、期待を裏切り、カテゴリを崩す。人間のパターン認識の「ここまでくると笑える」という臨界点を、毎回その場で更新するような行為だ。
そのザコシが、音楽生成AIを使う。3
AIが出力したものをザコシが判定する。あるいは逆に、ザコシの指示に対してAIが何かを返す。そのやりとりの中で、「笑い」はどこに発生するのか。
AIの出力がザコシ的な過剰さを持つことはできない。平均からの逸脱は、AIにとって本来的なアウトプットではない。ザコシがAIの出力に反応するとき、その出力を「ザコシ的なものさし」で測ることになる。「これはまだ足りない」「このズレ方は面白い」という判定が、ザコシというフィルターを通じて行われる。
かまいたちは「変かどうか」を判定していた。ザコシは「使えるかどうか」「面白くなるかどうか」を試している。審査員の席にいることは同じだが、採点基準が違う。
紹介の文法から実験の文法へ
かまいたちのChatGPT動画は「紹介の文法」で作られていた。AIを見せるのが目的で、芸人はその案内役だ。AIとの間に、距離がある。
ザコシの「AIいってんの?」は「実験の文法」に近い。どうなるかわからない状態で試してみて、その結果を含めてコンテンツにする。事前に「これが面白い」という確証がなくても回してみる。
この違いは、関係の非対称性を変える。
芸人が「AIの面白さを紹介する」から「AIと一緒に面白いものを作ろうとする」に移ったとき、AIはネタの素材から共犯者に近い位置に入ってくる。その共犯関係が成功するかどうかは別として、立場の変化としては明確だ。
かまいたちのChatGPT動画は、2023年という「AIを初めて見た年」の記録として残る。あの時期特有の、「これ、どう反応すればいいの?」という戸惑いと興奮が混ざった感触が、笑いをこらえるというフォーマットの中に封じ込められている。ザコシのシリーズは、その後の局面を生きている。AIはもう珍しくない。どう使うかだ、という時代に、「自分に使えるか」を問い続けている。
笑いの生産者が問われる場所
芸人がAIと組んでコンテンツを作るとき、笑いは誰が作ったことになるのか。
料理人が新しい調理器具を使っても、料理を作ったのは料理人だ。だが、その論理がAIとの協働に単純に当てはまるかはわからない。AIの出力が笑いを生んだとき、「面白い」の責任の所在はどこか。
ザコシの過剰さは、ザコシという身体と歴史から切り離せない。R-1のステージで培ったものが、AIとのセッションにも染み出している。AIはその過剰さを再現できない。だからAIとやりとりする中で笑いが生まれているとすれば、それはやはりザコシが作っているのだろう。AIは触媒か、素材か、あるいは共演者か。
その問いに答えが出るより先に、「AIいってんの?」の次のエピソードが出る。
たぶん、それでいい。
動画を見る
本文で軸になっているのは、この2本の動画だ。
ザコシのAIいってんの?#04
かまいたちがChatGPTのAI回答を笑わず読み上げ対決!
参照
Footnotes
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「AIいってんの?#04」では曲生成AIを扱っているとみられる。シリーズが進むにつれ、使用するAIツールの種類も広がっている。 ↩