PRIDEはなぜ伝説になり、なぜ終わったのか
PRIDEを思い出すとき、最初に戻ってくるのは試合結果ではない。
暗い会場に鳴るテーマ曲。高く叫ぶリングアナウンス。巨大なスクリーン。花道から歩いてくる選手の顔。ロープに囲まれた白いリング。サッカーボールキック、踏みつけ、膝。沈黙に近い日本の観客が、決定的な瞬間だけ大きく揺れる感じ。
PRIDEは格闘技イベントだった。けれど、強い選手を並べただけの大会ではなかった。テレビ番組であり、プロレスの残響であり、異種格闘技の実験場であり、世界中のファイターを日本の劇場へ呼び込む巨大な見世物でもあった。
その混ざり方が、PRIDEを伝説にした。
そして同じ混ざり方が、最後にはPRIDEを支えきれなくした。
始まりは「最強」の物語だった
PRIDEの第1回大会は、1997年10月11日に東京ドームで開かれた。中心に置かれたのは、プロレスラーの高田延彦と、グレイシー柔術のリックソン・グレイシーの対戦だった。Sherdogはこの大会について、47,860人が東京ドームに集まったと記録している。1
この出発点に、PRIDEの性格はかなり濃く出ている。
UFCの初期が「どの格闘技が本当に強いのか」という比較実験に近かったとすれば、PRIDEはその問いを日本のプロレス文化の上に載せた。高田は、単なる一選手ではなかった。UWFから続く「本当に強いプロレス」という幻想を背負った人物だった。リックソンは、その幻想を試す外部から来た現実だった。
PRIDEは、最初から純粋なスポーツとして始まったわけではない。
そこには、「本物の勝負」を見たい欲望と、「物語を背負った人間が倒される/倒すところを見たい」欲望が重なっていた。ロープの内側で起きていることは、実際の殴り合いで、関節技で、失神で、タップだった。だが、その外側にはプロレスの煽り、因縁、入場、会場演出、テレビの編集がある。
この二重性がPRIDEの強さだった。
ルールが作った、別の身体感覚
PRIDEの試合は、現在のUFCを基準に見ると、かなり違うテンポで進む。
象徴的なのは、10分の第1ラウンドだ。通常のPRIDEルールでは、第1ラウンドが10分、第2・第3ラウンドが5分だった。判定もラウンドごとの10点法ではなく、試合全体を見て判断する方式だった。加えて、グラウンド状態の相手への膝蹴り、サッカーボールキック、踏みつけが許されていた一方、頭部への肘打ちは認められていなかった。2
この違いは、単に危険な技があるかないかでは済まない。
10分の第1ラウンドは、選手の疲労を隠してくれない。序盤の爆発力だけでは逃げ切れない。寝技で上を取っても、下の選手が粘れば時間は長い。スタンドで詰められ、倒れ、そこから立ち上がるまでの間にも危険がある。ロープ際では、ケージのように身体を預けて立てない。リングは逃げ場にもなり、途切れにもなる。
PRIDEの身体感覚は、スポーツとして整理されきっていなかった。競技としての公平性よりも、「そこで本当に危ないことが起きている」という感触が前に出る。
もちろん、それは手放しで肯定できるものではない。許されていた攻撃のいくつかは、現代の統一ルールでは禁止されている。PRIDEの映像には、いま見ると魅力と同時に危うさがある。
ただ、その危うさを抜きにすると、PRIDEの記憶は急に薄くなる。観客は、きれいに管理された競技ではなく、競技になる手前の荒い熱を見ていた。
スターは、国籍ではなく「型」で記憶された
PRIDEの選手は、戦績だけではなく「型」で覚えられていた。
桜庭和志は、グレイシーを狩る日本人だった。ヴァンダレイ・シウバは、リングの中で前へ出続ける暴風のような存在だった。エメリヤーエンコ・ヒョードルは、表情の薄さと異常な決定力が結びついた静かな王者だった。アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラは、壊れそうに見えて壊れず、最後に関節を取る耐久の人だった。ミルコ・クロコップは、左ハイキックがひとつの死角として記憶された。
UFCの公式サイトがPRIDEの印象的な場面を振り返る記事でも、桜庭対ホイス・グレイシーの90分、ヒョードル対クロコップ、ノゲイラ対ボブ・サップ、ヴァンダレイの王座時代などが繰り返し取り上げられている。3
PRIDEのスター作りは、細かい戦績表より、身体のイメージに近い。
「右足病院、左足墓場」というクロコップの言葉が残るのは、それが正確な技術解説だからではない。左ハイが来るとわかっているのに避けられない、という物語を一行で言い切っていたからだ。ヒョードルの無表情も、桜庭の入場も、ヴァンダレイの踏み込みも、ノゲイラが極めるまで耐える時間も、技術であると同時にキャラクターだった。
選手たちは格闘技のスタイルだけでなく、観客の記憶に残る「形」を持っていた。
日本のテレビが、格闘技を年末の祭りにした
PRIDEが伝説になった理由を、会場の熱だけで説明することはできない。
地上波テレビがあった。
フジテレビは2000年からPRIDEを中継していた。朝日新聞は2006年6月の記事で、2005年末の「男祭り」が関東地区で平均世帯視聴率17.0%、2006年5月5日の「無差別級GP開幕戦」が17.6%を記録していたと報じている。4
この数字は大きい。PRIDEは、格闘技ファンだけが深夜に追うものではなく、年末のテレビ番組として家のリビングに入り込んでいた。大晦日に格闘技を見るという習慣は、単なるスポーツ観戦ではなかった。紅白歌合戦やバラエティ番組と同じ時間帯に、殴り合いと入場演出と煽りVTRが並ぶ。家族がいる部屋で、世界中の巨漢や柔術家やキックボクサーがリングに上がる。
ここでPRIDEは、競技団体を超えて「年末の気配」になっていく。
会場に行った人だけの記憶ではない。テレビで見た人、録画した人、翌日に学校や職場で話した人、スポーツ新聞で結果を追った人。その広がりが、PRIDEを神話化した。試合は一夜で終わるが、煽り文句、入場曲、実況、選手紹介の映像は、試合前から記憶を作っていた。
PRIDEが強かったのは、ファイトカードだけではない。格闘技をテレビ的な祝祭へ変えてしまう力があった。
伝説の裏側にあった、整理されなさ
PRIDEの魅力は、しばしば「何が起きるかわからない」と言われる。
それは、たぶん本当だ。
ただし、その言葉には明るさと暗さの両方がある。体格差の大きい試合、プロレスラーと柔術家の対戦、相撲出身者、柔道家、キックボクサー、未知の外国人選手。競技として見れば、マッチメイクは必ずしも整然としていない。いまのMMAの階級制、ランキング、王座戦線の感覚から見れば、粗いカードも多い。
だが、その粗さがPRIDEの磁場でもあった。
階級や競技形式がまだ固まりきる前のMMAには、「本当に強いとは何か」という古い問いが残っていた。体重が重いほうが強いのか。柔術は打撃に勝てるのか。プロレスラーは本当に戦えるのか。キックボクサーは寝かされたら終わるのか。柔道家の投げはMMAで通用するのか。
PRIDEは、その問いをきれいに分類しなかった。むしろ、分類される前のざらつきを興行にした。
いまの目で見れば危うい。だが当時の観客にとっては、その危うさが「まだ誰も答えを知らない」感じを作っていた。
終わりは、テレビを失ったところから始まった
PRIDEの終焉を、一つの原因だけで説明するのは乱暴だ。
それでも、決定的な分岐点は2006年6月5日だった。フジテレビが、PRIDEを運営していたドリームステージエンターテインメントとの契約解除と放送中止を発表した。朝日新聞は、フジテレビが「運営会社に不適切な事象があった」として詳細を明らかにしなかった、と報じている。4
当時、週刊誌ではPRIDEと反社会的勢力の関係をめぐる報道が続いていた。国立国会図書館の書誌にも、2006年6月24日号の『週刊現代』に「本誌追及でついに放送中止」とするPRIDE関連記事が記録されている。5 ただし、フジテレビ自身は具体的な理由を公表していない。暴力団関係の有無を、この記事で断定することはできない。
確かに言えるのは、PRIDEが地上波という巨大な基盤を失ったことだ。
これは単なる放送枠の喪失ではなかった。地上波は、スポンサー、選手の知名度、一般層への認知、年末イベントの規模、ファイトマネー、会場演出を支える資金の流れに直結していた。PRIDEはスカパー!などのPPVでも続いたが、地上波の広さとは別物だった。
テレビがPRIDEを伝説にしたのなら、テレビを失うことは、その伝説を維持する装置を失うことでもあった。
UFCへの売却と、再開されなかったPRIDE
2007年3月、UFCの多数株主だったロレンゾ・フェティータとフランク・フェティータが、PRIDEを買収することで合意した。AP通信を配信したESPNの記事は、買収額は公表されなかったが、関係者が7000万ドル未満と話したと報じている。6
当初は、UFCとPRIDEを別ブランドとして運営し、王者同士のメガファイトを実現する構想が語られていた。だが、その未来は実現しなかった。2007年4月8日の「PRIDE 34 - Kamikaze」が、結果的に最後のPRIDEになった。Sherdogのイベント記録でも、同大会は2007年4月8日、さいたまスーパーアリーナで行われたPRIDEの大会として記録されている。7
なぜ、買収後にPRIDEは続かなかったのか。
大きく言えば、PRIDEをPRIDEたらしめていた条件が、もう揃わなかったからだ。
日本の地上波テレビ。DSEが作っていた映像と会場演出。プロレスと格闘技の境界にあった観客の期待。統一ルールとは違う危険な技。大晦日の習慣。さいたまスーパーアリーナの空気。海外から来る選手を、日本の物語の中に置く編集力。
それらは、商標や映像ライブラリや選手契約だけでは移植できない。
UFCはその後、世界のMMAを標準化していった。ケージ、統一ルール、階級、ランキング、アスリートとしての選手像、世界配信。競技としては、そのほうが長く続けやすかった。安全管理、スポンサー、放送、国際展開を考えれば、PRIDE的な荒さは残しにくい。
PRIDEは、MMAが世界的スポーツになる前夜の熱だった。世界化したMMAの中では、そのままの形で生き延びにくかった。
伝説とは、戻れない形式のことかもしれない
PRIDEを懐かしむ声には、しばしば危うい甘さがある。
昔はよかった。ルールが激しかった。選手が個性的だった。会場が熱かった。いまのMMAは整いすぎている。そう言いたくなる気持ちはわかる。PRIDEの映像には、現在の大会にはない湿度がある。入場だけで、もう試合の半分が始まっているような濃さがある。
けれど、PRIDEをただ理想化すると、大事なものを見落とす。
あの興行は、危ういルール、テレビ依存、巨大な制作費、プロレス的な物語、未整理なマッチメイク、そして当時の日本の格闘技ブームに支えられていた。どれか一つだけを取り出しても、PRIDEにはならない。逆に言えば、それらが一つの時期に偶然重なったから、あれほど強い記憶になった。
伝説とは、優れていたものの名前であると同時に、もう同じ形では戻れないものの名前でもある。
PRIDEは、MMAをまだ完全なスポーツにしきらなかった。だからこそ、スポーツでは拾いきれないものを抱え込んだ。恐怖、期待、虚構、国民的スター、異種格闘技の夢、テレビの祭り、リングの白さ、選手の入場、終わったあとの会場のざわめき。
それが伝説になった理由だ。
そして、その束がほどけたとき、PRIDEは終わった。
参照
Footnotes
-
Sherdog, “Sherdog Remembers: The Birth of Pride Fighting Championships”。PRIDE 1の開催日、会場、観客数について。 ↩
-
LowKickMMA, “Pride Rules: The Rule Set of Pride Fighting Championship” および Pride Fighting Championships Explained。第1ラウンド10分、判定方式、許可・禁止技などのルール概要について。後者は旧PRIDE公式ルールへの参照を含む。 ↩
-
UFC, “PRIDE’s 30 Most Memorable Moments”。桜庭対ホイス、ヒョードル対クロコップ、ノゲイラ対サップなど、UFC側がPRIDE史の主要場面として整理している記事。 ↩
-
朝日新聞, “どうなるPRIDE フジの放送中止”。2006年6月5日のフジテレビによる放送中止、視聴率、フジテレビ側説明について。 ↩ ↩2
-
国立国会図書館サーチ, “本誌〔週刊現代〕追及でついに放送中止 『PRIDE』=暴力団を斬り捨てたフジが恐れる「問題社員」”。2006年6月24日号『週刊現代』掲載記事の書誌情報。 ↩
-
ESPN / Associated Press, “Source: UFC buys Pride for less than $70M”。2007年3月のPRIDE買収合意と報道された買収額について。 ↩
-
Sherdog, “Pride 34 - Kamikaze”。2007年4月8日、さいたまスーパーアリーナで行われたPRIDE 34のイベント記録。 ↩