すべてのものは上へ漂う――短編アニメ映画『Saba』について
ヘブライ語で「おじいさん」を意味する言葉が、映画の中でほぼ唯一発話される。
「Saba」。その一語だけが声になる。それ以外のことは、ほとんど言葉では語られない。9分間の短編アニメーション映画はそのほぼ全体を沈黙と音楽と映像だけで構成されていて、セリフの代わりに「世界の物理法則そのもの」が語り手として機能している。1
監督はイスラエル出身のLiron Topaz。「Kung Fu Panda 2」「Alice in Wonderland」などのアニメーション制作に参加してきた人物が、自身の祖父を亡くした経験を起点に作り上げた、個人的かつ普遍的な作品だ。
逆重力の世界とは何か
『Saba』の舞台となる世界では、重力が上向きに流れている。
ただし、すべてのものが上へ向かうわけではない。命あるもの——人間、動植物——は地面に留まる。それ以外のものは、ゆっくりと上へ漂い始め、やがて「別の場所」へと消えていく。
この設計は、監督Topazの言葉によれば「感情的なメタファー」だ。2「この世界での私たちの時間は借り物のようなものだという感覚から生まれた」と彼は語る。「時間をかけて私たちの手の届かない場所へ漂っていくのであって、本当に消えてしまうわけではない」。
「消滅」ではなく「遠ざかり」として死を描く——この発明がいくつのことを可能にしているかを考えると、映画の密度が見えてくる。
死後も存在が「どこかにある」という感覚は、世界中の喪失体験に共通する感情だ。故人が完全にいなくなったとは思えない感覚。あの人の声がまだ耳にある感覚。それが「幻想」や「否認」ではなく、この映画の世界では物理法則として存在している。祖父は死んでいない——ただ上へ漂っていった。手が届かなくなっただけで、どこかにいる。
アニメーションというメディアがこの表現を可能にしていることも、Topazが明確に意識している。「アニメーションは実写では表現できない方法で感情を視覚化できる」。『Saba』の世界はメタファーで建設されていて、重力の方向そのものがストーリーテリングに参加している。これを実写で再現しようとすれば、比喩は特殊効果の説明になってしまう。アニメーションでは、その世界の物理が感情と等価になれる。
ロープとアンカーが語るもの
映画の画面には随所にロープと錨が登場する。
家はロープで吊られている。ボートは錨で地面につなぎとめられている。祖父(Saba)が腰を下ろす古びた肘掛け椅子も、何本かのロープで固定されている。人々は日常の中で、絶えず自分を地面につなぎとめることに気を払っている。
Topazはこのモチーフについてこう語る。「ロープと錨は、大切な人や瞬間を手放したくないという、人間にとってごく普通の欲求を表している」。2
映画の中で最も詩的な場面の一つは、祖父が椅子のレバーを引く瞬間だ。椅子が傾く——と思ったら、レバーが外れて釣り竿になる。糸は上へ向かって伸びていく。頭上にある、見えない「海」へ向かって。
この映像の論理は、説明なしに伝わる。釣りをするのに、なぜ上を向くのか。上に海があるからだ。そこへ何かを投げかけることが、この世界では釣りだ。祖父は生きて地面にいながら、上の世界と糸でつながっている。それが日常の行為として描かれているとき、観る側はこの世界のルールを体で理解している。
逆から降ってくる豪雨——下から上へ向かう雨——のシーンも同じ論理で動いている。ボートが自動的に傘を広げて雨を防ぐ。この世界では雨は「落ちてくる」ものではなく「舞い上がってくる」ものだ。重力の逆転は、あらゆる自然現象を書き直す。
ワンカットという選択
この映画は全編がカットなし、一本の連続したカメラムーブで構成されている。
9分間、一度も切れない。
これは技術的な挑戦でもあり、制作上の難題でもあった。Topazによれば、映画はフランス、イスラエル、その他複数の国のアーティストが時差を超えて同時並行で制作した。2 通常の映画制作のように「このカットをあのチームへ渡す」という方法は使えない。全員が同じ一本の連続したカメラムーブの、それぞれ異なるセクションを同時に制作していた。片方のチームが作業しているとき、もう一方のチームは眠っている。それでも全体がつながらなければならない。
なぜカットしないのか。
ワンカットという形式が、内容と一致しているからではないかと思う。
悲嘆という経験は、「ここから先が喪失の場面」という具合に区切られない。ある日を境に別れがあり、その前後で世界が連続していながら、何かが変わる。記憶もそうだ。幼少期の記憶と祖父を亡くしてからの記憶の間に、明確なカットはない。連続した時間の流れの中に、いつの間にか存在しなくなった場所がある。
映画がカットなしで進むとき、観客は少年と祖父の時間を、時間の断絶なしに経験する。始まりから終わりまで、同じひとつの流れの中にいる。カットがあれば「ここが転換点」と視覚的に示せる。カットがないとき、変化は静かに、しかし確かに、流れの中で起きる。
クロージャーとは忘れることではない
映画の後半で、少年は祖父を失い、再び会おうとする旅に出る。
その旅がどこへたどり着くのかを、Topazはここで明かさない方がいいと考えている——「夢の中の出来事なのか、記憶なのか、現実なのかは意図的に曖昧にした。感情的な真実に関心があった」。映画を観た人それぞれが、自分の経験に重ねて解釈できる余白が残されている。
トライベッカでの反応は、その余白の広さを示していた。「全く異なる背景を持つ観客の方々が、上映後に私のところへ来て、自分の祖父母や親や大切な人についての話を話しかけてくれた」とTopazは語る。2 ヘブライ語タイトルの短編アニメーションが、それぞれの記憶の扉を開いた。
クロージャー(closure)という言葉がある。日本語では「閉幕」や「区切り」と訳されることが多いが、喪失の文脈では「別れの納得」に近い意味で使われる。傷が癒えること、ではなく、その喪失とともに前へ進めるようになること。
Topazはこう語る。「クロージャーとは忘れることではない。それは記憶を前へ持ち進む方法を見つけることだ」。2
上へ漂っていったものは、どこかにある。ロープは切れたかもしれない。錨は外れたかもしれない。それでも糸は伸びていた。上に向かって。祖父がいたかもしれない海へ向かって。
映画は、その糸の行方を答えとして示さない。でも糸が伸びていたという事実は、消えない。
Footnotes
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Tribeca Festival 2026公式サイト、"Saba" 作品ページ。世界初上映:2026年6月6日、再上映:6月13日。配給:Miyu Distribution。https://tribecafilm.com/films/saba-2026 ↩
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The Movie Buff, "Tribeca 2026: Interview with 'Saba' Writer and Director Liron Topaz on his Dreamlike Animated Short Film," 2026年6月。監督Liron Topazへのインタビュー。https://www.themoviebuff.net/2026/06/tribeca-2026-interview-with-saba-writer-and-director-liron-topaz-on-his-dreamlike-animated-short-film/ ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5